【3つの受難】夫婦生活がうまくいかなくなった時に読む記事

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結婚していない私が、こんなことを書くことに一抹の疑念を抱く。

が、まぁ良しとしよう私の結婚観はねじ曲がっていると最近女性に指摘されることが特に多く人生観の中の1つのピースとなっているこの部分皆も感じている部分であろうさ。

誰かに必要とされている人間はその誰かをしっかりと認識していなくてはならないと思う。

自己の意識ではなく、他方向から自分に向けられている意識というのは、自分ではなかなか気づかないものなのだから。

ということでいっきまーす。

夫婦の営みにおいて。

夫婦が夫婦であるというのは、こと日本においてはこのように定義されている。

日本の民法の752条では「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない」とあり、夫婦は「同居、協力、扶助」の三つの義務を履行しなくてはならないことになっている。夫婦共同生活が維持できなくなることを企図や意思を持って三つの義務を正当な理由なく故意に履行しないことを、「悪意の遺棄」と言う。例えば、相手方を置去りにして住居を飛出す行為、相手方を追出す行為、病気にかかった相手方を長期間放置する行為、家に生活費を入れない行為などが「悪意の遺棄」に該当する可能性がある。職務上の単身赴任、夫婦関係を見なおす冷却期間としての合意の上での別居、子供の病気療養の為の別居、ドメスティックバイオレンスから逃れる為の別居など、正当な理由があって同居できない場合は「悪意の遺棄」には該当しない。「悪意の遺棄」に基づくものであれば民法違反になり、それが継続して修復困難とみなされれば正当な離婚理由となる。

出典wikipedia「夫婦」より

とまぁ法律的解釈はこんな感じに仕上がっております。

夫婦を知ることは民法を知ること、早速買わなくては。

共同生活を送る中で互いを尊重しあい、助け合いなさいよってことでよいのだろうか。

ともすれば。

夜旦那が帰ってこないのよ~(飲み会、異性との交遊、麻雀)
奥さんが最近人付き合いだといって無駄遣い(昼食やブランド品、旅行)ばかりするんだよな

は離婚自由なのか。

しかしながら、冷却期間としての別居は認められているのであるからして、相手に冷め切ったら多少は離れるのもいいんじゃない?と法律はそういっている。
意外と人情的だな民法は。

 

経済的受難keizaitekijuna

格差社会のギャップが広がる現代においては、夫婦円満な生活を送るためには、経済的な蓄えが家庭には必要である。

例えば私は年収が1億円あったなら、すぐにでもその辺の女性と結婚することはできるだろう。

子供の学費、毎日の食事、夫婦が共有すべき時間etc・・・を全て網羅できる。
日本のサラリーマンの生産性は諸外国と比べると低いというのは、例年ニュースになるがその影響は夫婦生活に関係してくると思われる。

しゅふの労働対価は150万程度だとも、1200万円だとも言われている。

お金はそのものの価値を図る尺度が本質のため、主婦、主夫の働きが自分で考える経済的価値感でとらえてしまうのは人生観を狭めてしまうことにもつながるし、社会から見るとあまりにもちっぽけな考えなので、「相手の年収が少ない」と熱を込めてパートナーに異を唱えるのはいかがなものであろうか。

 

例えば主夫であれ主婦であれ、家事や育児に従事しているものであれば、自分の労働対価はいくらなのだろうかということを気にする人も多いのだろう。
換算すると年収150万がせいぜいだとか、一方では1200万円といわれることもある。
作業量の分担やパートナーの年収に比例して行わなくてはいけない(まつりごと)もあるだろう。

片方に十分な稼ぎがあれば、家政婦を雇いお互いの時間を大切にできるし、自由な時間が増えればストレスを軽減することもできる
しかし、日本は家政婦を雇えるほどの稼ぎを持つ人よりも、子供に習い事をさせることが困難な家庭の方が多いのである

そういった年収が400万円に満たない家庭では共働きが普通であるし、夫婦間では収入格差があってあたりまえ。

その場合は少ない方が家事を行い、その分をもう片方が負担するというのは今の現代にはあっている気がする。
しゅふ年収を相手との差額にすれば、お互いの価値感の相違はなくなるのではないか。という考え方。

私は家政婦じゃない!

俺はATMじゃない

といった問題も解決されるのだろうか。
そうなると益々家事担当は感謝されなくなるかもしれないが、エゴ的な義務感もなくなりフラットな考え方ができるのではないだろうか。

そもそも家事は義務でやることではないし、民法に家事しなきゃいけないなんて書いていない。

そうやって家事の一つ一つに価値を付けてお互いにシェアをしていけば、わだかまりもなくなる。
これを行うにはお互いの歩み寄りとプライドを気付つけないよう思いやりの心が必要となるがそれをできる人間が果たして存在するのか・・・

恋愛的受難AI_IMG_7674_TP_V

恋愛市場主義となってしまった現代の日本では、恋人から結婚という流れを組むのがセオリーとなり、かつてのお見合い婚のような古き文化が異端とされる。

そして恋愛の賞味期限は3年だと心理学的に言われる。最初は好きだから許せたことも飽きた相手は、長年顔を合わせていない家族よりタチが悪い。

 

靴下の脱ぎ方や、ご飯を食べる時間でさえも相手を許容できなくなってしまう

 

靴下の脱ぎ方や、ご飯を食べる時間でさえも相手を許容できなくなってしまうのは恋愛の賞味期限が切れているからであろう。

生活のリズムが合わない人間とは一緒にいられない。

ここを解決するためには、女性は男性をたてるべき(下的にも)だし、男性は女性を理解すべき。
そこを意識せずにできる夫婦は60過ぎても手をつないで歩けるし意識すらしない夫婦は遅かれ早かれ他人になるだろう。

夫婦という枠組みをお互いが理解しなければ、家庭内別居の危機が訪れる、これを理解して結婚という名の障害物競争に向かう人間がどの程度いるのか。
傲慢で利己的な人間が結婚に向かないのはここにある。

この問題こそ「夫婦である」という義務感を存分に発揮してお互いが努力すべきなのだが、人は「結婚」というワードに華やかな印象を抱きすぎではないだろうかもっと客観的に機械的にシステム的なものだという認識を強めていくべきではないだろうか。

初デートを思い出してディナーを楽しんではいかがだろうか。

相手の好きなものを思い出してプレゼントしてはいかがだろうか。

人間の感情のコントロールは経済的受難よりも困難な問題だと思う。

非社交的な受難syakoutekijunann

家族であれ、社会であれ、相手を思いやれない人間は他人と同じ時を過ごすことが非常に困難であるし、ストレスがたまる。
特に男性に多いのだが、親戚づきあいである仕事であれば上司や取引先にこびへつらい、SNSでのリア充アピールが炸裂するのだが、こと身内のこととなると途端に面倒になるというものだ。

他人の家族を思いやる気持ちがどれほど芽生えるというのだろうか。
少なくとも私は、自分の家族にすら社交的にふるまっていない、父親と1ヶ月に一度電話するかしないかである。

挨拶も面倒、親戚との団欒の時間も面倒。

挨拶も面倒、親戚との団欒の時間も面倒。

そうなると、「家族」という枠組みには入れず、「他人」というレッテルを貼られてしまう。

これを怠ったことで夫婦間の絆が避けてしまうのはいかんともしがたいことだが、それはしょうがないことである。

夫婦とは婚姻関係であり家族である、そして家族の家族もまた家族であるからして、家族を大切にしない人間は家族ではないということになる。

駆け落ちはそれを表した典型的パターンといえるかもしれない。

パートナーを家族と認め、両親を家族と認めず縁を切るのであり、本来の枠を取り換えてしまう行為である。

社交的受難とはその反対のことが起きてしまうことである。

営業マンであれば相手の家族を大切にしているという装いをしてみてはいかかだろうか。

女性であれば、いやな姑と買い物に出かけてみてはいかがだろうか。

まとめた

以上の3つが私が結婚しても離婚してしまうのだろうなー

と思った受難である。

書いていて思ったのだが、やはりパートナーには経済的にも、人間的にも似たような人間がふさわしいのではないかと思う。

本来は経済的に豊かであれば、経済的受難は感じなくてもよい問題だし、そのようになれるのが理想的ではあるのだが、現実問題厳しい。

家族に対しての愛情や、金銭的感覚の大半が同じであれ、不要な衝突は避けられるし、変なわだかまりもないように思う。
まずは恋愛のパートナーを探すところからというのが、非常に面倒ではあるのだが、恋愛に対してプライオリティを置かないようにしているため、私としては、スロー婚活でいいような気がする。

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